【UCL】初版への序文
[2025年1月12日更新]
この本、私の他の本の読者は、私が首尾一貫して、個人としての活動や集団としての活動の中で生まれる人間の反応が持つ性質に興味を持ってきたことをご存知だろう。私がこの点に興味を持っているのは、これまでの経験から、ある一定の時間の中でその人物が見せる反応の仕方がもつ性質がその人物の振る舞いや行動の性質を決定している、と断言できると私が考えているからである。
新しい本が出版されるこのタイミングで、私がこれから読者の前に提示しなければならない証拠を目にした読者がするであろう反応について考えてみるのは果たして不自然なことだろうか?ここで取り扱うテーマは、人間の振る舞いや行動といった領域での過去8年間にわたる独自の経験から生まれた成果である。そう、この本は、トプシーのように「ただ成長しただけ」なのである。この本が綿密な計画の下で生まれたわけではないことに、読者はがっかりしているかもしれない。だが、ここで取り上げているテーマの性質やその由来から考えるならば、この本の内容が計画に基づいて書かれた本に特有の制限からは横道に逸れたものになっている、という点を読者に承知しておいてもらいたい。また、文章の長さに関する指摘についても、その理由について少しコメントしておこうと思う。
友人たちの助けを借りながら、私は自分の書いたことを明確かつ簡潔にするために時間をかけてきた。それでもなお、私の文章は長いとよく指摘を受ける。
仮に私が書こうとしている考えや経験が部分的で具体的な特定の何かで表現できるものであったり、直接的な方法で実行できたり、獲得することができるものであるならば、その考えや経験を短い文章やいくつかの短い文章のまとまりで表現するのは比較的簡単であろう。なぜなら、そこにはそもそも、分割や断絶といった概念が含まれているからである。しかし、部分的な応用ではなく、全体としての応用を必要とする間接的な方法を含む統一的な現象に関する考えや経験は、これらが切り離すことのできないまとまった一つの全体であることにいかなる疑いも抱かせないようにするため、そのような考えや経験の意味を伝える文章によってしか十全に表現することはできない。
さて、私は読者に対し、この本に書かれた私の実践から得られた証拠の中に読者が持っている信念や既に知っている理論と衝突するかもしれないものや、読者の個人的な興味とはそぐわないものを見つけたならば、何かしらの判断をする前に、それをまず精査するという原理を適用してくれるようお願いしたい。そして、もし提示されている証拠がそこで置き換えようとしている実践的な手段に通底する原理と同じ原理に基づいていることが精査によって判明したならば、その手段に反対するという判断を下し、私が示した証拠を信じる必要はない。しかし、もし全く正反対のことが判明したならば、私が示した証拠は、私の示した実践的な手段の中で行っている手順に従った方法を適用することによって、サイコ・フィジカルな有機体の持つ機構の働きがどのような性質を持つようになるかを観察する、という実践的な精査にかけられるべきであろう。そして、もしこの働きが全体としての機能の基本水準の向上につながるものであったならば、この実践的な手段を支持する判断を下すようにしてもらいたい。
16, Ashely Place,
Westminster, London
1941年4月